父が娘に昔の恋人と同じ名をつけた後、その昔の恋人に「よりを戻そう」という趣旨の手紙をしたため、その草稿が妻に発見され、「一生涯子どもの名を呼ぶ度にこの耐え難い思いを呼び起す」として求めた改名が許された事例(前橋家沼田支審昭和37年5月25家月14巻9号112頁) #名の変更

申立人甲野京子(昭和三十七年三月二十六日生)は父甲野松夫(昭和十二年八月三日生)と母甲野竹子(昭和十四年十月二十二日生)との間に出生した長女である。
 しかして、右松夫と竹子とは昭和三十五年五月十日知人の媒酌によつて結婚し、爾来住所地である群馬県某所(温泉町)において遊戯場、射的場、つり堀等を経営し、冬季は右の松夫が貸スキーを営みその枷同人はスコーヤーのコーチ(準指導員)をもしたり等し、竹子はその妻として松夫を助け相携えて新家庭の建設にはげんで来たものであつて、夫婦間は円満かつ平和なうちに推移していた。
 しかるに松夫は竹子と結婚する以前一時東京都内の旅行案内所につとめたことがあり、その頃すなわち昭和三十二年頃、同都内の某製薬会社にタイピストとして勤務していた「梅野京子」なる女性と知り合うに至り同女と相思相愛の仲となつたのであるが、双方の家庭前な事情から結婚することができず、松夫は同女を諦め前記のように住所地に帰郷し前記竹子と結婚したのであつた。ところが昭和三十七年一月頃松夫が水上附近のスキー場に出掛けた際、偶然右梅野京子も同スキー場に来場しており、松夫と相会するや同女は松夫に対して今なお根強い恋情を抱いている旨を打明け、松夫より同人が既に竹子と新家庭を形成し長女の出産も間近かである旨を聞知したにも拘らず、松夫を誘い旧交を温めたい旨申し入れひそかに再会しようとはかつたため、右竹子の出産入院中松夫も亦梅野に宛てて恋情をこめた恋文をしたため、その草稿を自宅に捨て忘れていたところ四月十五日竹子が帰宅し右草稿を発見するに至つたものであつて、その文面によれば松夫は「現在結婚しているのを後悔し、妻や子供がいなかつたら二人で(梅野と共にの意)どこかへ行つてしまいたい。京子さんの為なら命も惜しくない」等というような容易ならざる文字を書きしるしておることを知り、竹子は愕然として驚きただちに松夫に対し事の真否をただし、併せで長女に松夫が「京子」と命名した事情についても詰問し、たとえ松夫が右梅野京子に対する恋情を温存しこれにあやかる意図からなしたものでないとしても武子の感情として這般の経緯を知つた以上、最早最愛の長女を呼ぶのにかくの如き名を以つてすることは母とし子として到底でき得ないところであつて、夫松夫の真情の如何によつてはただちに離婚しこの不愉快かつ拭うべからざる汚辱と訣別せんとまで決心したというのであるが、松夫も事の重大なのに気付き飜然その非を認め今後前記梅野なる女性とは一切交際をたち一家の平和をまもる旨を誓約するに至つたので、夫妻は右長女の名前を「京子」でなく「某」と改めることとし、出産祝にも「某」としるして披露し、ここに夫妻相携えてこの改名方の許可を求めるに及んだもので、右竹子の心情としては改名方を許可されないならば、終生長女の名を呼ぶ毎に右の如き耐え難い思いを呼び起すことともなり、かかる不愉快な記憶につきまとまわれるのであるならばむしろ離婚し、かような不愉快な感情と訣別したく考えている、というのである。
(当裁判所の判断)
 本件申立の趣旨およびその実情は前記のようであるが、その真意をそんたくするに、右「京子」なる名前を命名するに際しその母竹子は前記のような事情について全然関知しておらず、もしかような事情を知悉していたならば右の長女に命名するのに「京子」なる名称や文字を避けたであろうということは想像するに難くないのみならず、通常人としては誰しも当然避けるべきところと考えられるのであり、またこの名前を維持させることは右の長女自身にとつても穏当ではないであろうと考えられる。ましてやその両親にとつて不愉快な感情をかもしたり家庭の円満や平和を脅やかす要因となることは明瞭であるのみならず、家庭生活の破壊を来しかねないものと思料せられ、ひいては長女自身の幸福を阻害しその生活基盤をあやうくする可能性をもはらんでいるものと言いうる。
 それ故、右「京子」なる命名はそれ自体一種の錯誤によるものとも言い引べく、申立人自身の社会生活上に支障を及ぼすものと解しうるので本件申立は正当な理由のあるものと認められるので、戸籍法第一〇七条第二項、特別家事審判規則第四条によつて右申立を許可すべきものと思料する。
 よつて主文のとおり審判する。