実務の経験が教えるところによると、捜査の段階にせよ、公判の段階にせよ、被疑者若しくは被告人は常に必ずしも完全な自白をするとは限らないということで、このことはむしろ永遠の真理といつても過言ではないとした事案

(東京高判昭和49年10月31日判タ314号251頁) #永遠の判決
事後審である当裁判所として、原判決の事実誤認の存否を審査するに当たつて、ここで当裁判所の基本的な態度を明らかにしておくと、我々裁判官は憲法に適合した法令の従僕であるとともに証拠の従僕でもなければならないと考えているがゆえに、個々の証拠を評価するに当たつては証拠能力・証明力の点について綿密な審査を重ねてきたわけである。ところで、実務の経験が教えるところによると、捜査の段階にせよ、公判の段階にせよ、被疑者若しくは被告人は常に必ずしも完全な自白をするとは限らないということで、このことはむしろ永遠の真理といつても過言ではない。殊に現行の刑事手続においては、被疑者ないし被告人にはあらかじめ黙秘権・供述拒否権が告知されるのであり、質問の全部または一部について答えないことができ、答えないからといつてそのことから不利益な心証をもつてはならないという趣旨であつて、もとより虚偽を述べる権利が与えられるわけではない。また、実務の経験は、被疑者または被告人に事実のすべてにわたつて真実を語らせることがいかに困難な業であり、人は真実を語るがごとくみえる場合にも、意識的にぜよ無意識的にせよ、自分に有利に事実を潤色したり、意識的に虚偽を混ぜ合わせたり、自分に不都合なことは知らないといつて供述を回避したりして、まあまあの供述(自白)をするものであることを、常に念頭において供述を評価しなければならないことを教えている。このことは、参考人や証人として供述する場合も程度の差こそあれ同じことである。また、かようなことは、弁護士が民事・刑事の依頼者から事実関係を聴取する場合にすら往々経験するところであろうと思われる。被疑者や被告人が捜査官や裁判官に対して述べるのは、神仏や牧師の前で懺悔するようなものではない。否、懺悔にすら潤色がつきまとうものであつて、これこそ人間の自衛本能であろう。大罪を犯した犯人が反省悔悟しひたすら被害者の冥福を祈る心境にある場合にすら、他面において死刑だけは免れたい一心から自分に不利益と思われる部分は伏せ、不都合な点は潤色して供述することも人情の自然であり、ある程度やむを得ないところである。しかるに、所論は自白とさえいえば、被疑者や被告人は事実のすべてを捜査官や裁判官に告白するものだ、これが先験的な必然であるというかのような独断をまず設定したうえで、そこから出発して被告人の供述の微細な食い違いや欠落部分を誇張し、それゆえ被告人は無実であると終始主張している。これは全く短絡的な思考であつて誤りであるといわざるを得ない。
 そもそも、刑事裁判において認識の対象としているものは、いうまでもなく人間の行動である。人間の行動は、その感覚や思考や意欲から発生するものであり、その発現の態様は我々自身が日常自らの活動において体験するところと同様である。この一般的な経験則を根底に持つている人間性は同一であるという思考が、過去の事実の正しい認識を可能にする根本原理であつて、人が人を裁くことに根拠を与えている刑事裁判の基礎をなすところのものなのである。過去の人間行動(事実)はただ一回演ぜられてしまつて観察者の知覚から消え去つた後は、記憶の影像としてのみ残るに過ぎない。しかも、その観察者の知覚・表象・判断・推論を条件付ける精神過程は極めて区々であるうえに、さきにも触れたように、人間は意識的・無意識的に自己の行動を潤色し正当化しようとするものであることをも考え合せると、このような不確実と思われる資料(証人や被告人の供述など)を基礎として、確実な認識を獲得することはなかなか困難な作業ではあるけれども、しかし、それらの互に矛盾する資料であつても、その差異を計算に入れて適切な批判や吟味(この思考過程は直線的でなく円環的であり、弁証法的なものである。分析的であるとともに、総合的なものである。)を加えるならば、かえつてそれ相当の価値ある観察が可能なのであり、このことが刑事裁判における事実認定の基礎であるとともに、控訴審である当裁判所が事後審として原判決の事実認定の当否を判断することを可能にする根拠でもある。そして、この心的過程は、窮極的には、裁判官の全人格的能力による合理的洞察の作用にほかならないのである。